教会小史
前史
(1927-1945)
等々力教会は、1996年に創立50周年を迎えました。この創立年は、現在の住所に教会を建設した時から数えたものですが、等々力教会そのものの始まりは、第二次世界大戦前、ドイツ・リーベンゼラ宣教団のノートヘルファー宣教師宅で行われたドイツ語バイブル・クラスからでした。リーヘンゼラ宣教団は1899年(明治23年)、南ドイツのヴェルテンペルクに設立され、はじめ中国と南洋諸島へ宣教師を送っていましたが、日本には1927年(昭和2年)に数人の宣教師が渡来しました。彼らは大田区久が原と川崎市登戸、それに世田谷の等々力に土地を借り、家を建てて伝道を開始しました。この三ヶ所に現在も教会は存続しています。ノートヘルファー師は、等々力の最初の宣教師でした。もし等々力教会の歴史の起点をこの時に置けば、2000年の段階で、創立73年になります。
どうして等々力だったのか。恐らく、ノートヘルファー宣教師の出身地ミュヘン郊外の住宅地に似ていたのでしょう。住居は等々力渓谷に近い現在の等々力一丁目34番地です。当時、夜は渓谷の川や滝の音が聞こえました。滝が轟くことから地名を「とどろき」と呼んだという説があります。また、現在の環状八号線は、東横線田園調布駅から上野毛の第三京浜国道入り口まで「桜並木」と呼ばれる道でした。春は、道の両側に植えられた桜がトンネルになり、遠くを見ると花と道が一つになるきれいな道でした。春は花見、夏は涼しい散歩道でした。それは、現在の野毛町の大塚古墳、野毛公園、建設省官舎が戦前は国のゴルフ場で、皇族・外交官方が見えたので整備されていたからです。等々力駅の近くに「ゴルフ橋」という名称が残っています。桜は現在、田園調布駅前の広場と多摩川浄水場内に一部残っています。
ドイツ宣教師が来日した1927年、日本で金融恐慌があり、29年(昭和4年)には世界大恐慌が始まり、ドイツではナチスが台頭しました。31年に満州事変が始まり、37年には日中戦争、39年、ドイツのポーランド侵入、第二次世界大戦勃発、40年、日独伊三国同盟、そして41年には太平洋戦争が始まりました。イギリス、アメリカの宣教師達は帰国を強制されましたが、同盟国のドイツ宣教師は日本に滞在を許され、教会の働きを非けました。しかし1944年(昭和19年)、ドイツの敗走に伴い、ノートヘルファー師一家は、同僚のブッス宣教師一家と共に、軽井沢に軟禁されました。彼らは、1945年の終戦を軽井沢で迎え、一年後、スカンジナビア・アライアンス・ミッションの招聘でアメリカへ渡りました。
旧会堂建設まで
(1945-1950)
等々力のバイブルクラスは、ノートヘルファー師が軽井沢に軟禁されると閉会しましたが、終戦後すぐにスカンジナビア・アライアンス・ミッションの宣教師テモテ・ピーチ師が等々力のノートヘルファー師の家に住み、伝道を開始しました。ピーチ師は、戦前宣教師として日本に来られた方で、日本語を鋤柄熊太郎牧師から教わりました。熊太郎牧師は、日本語を宣教師達に教える働きをしていて、常時十人ほどのアメリカ、イギリスの宣教師達を教えていました。この関係から、戦後、ピーチ師と熊太郎牧師が等々力の開拓伝道を開始しました。野毛のゴルフ場は、戦後、建設省の管理下に置かれましたが、ゴルフ場の大きな講堂をお貸りする形で、等々力教会が発足しました。ピーチ宣教師と熊太郎牧師が等々力で開拓伝道を始めたのは、1948年(昭和23年)でした。建設省の講堂は大きなもので、300人は優に入るものでしたが、その講堂に一杯に人が集まりました。
鋤柄熊太郎牧師は、1949年(昭和24年)、疎開先の横浜長津田から等々力へ移ることになりました(現在の等々力1丁目69番地3号)。1950年、建設省が野毛に職員住宅を建設することになり、教会が移転することになりました。その際、ピーチ宣教師は、都立大学の目黒道りに面した土地をご自分で購入され、そちらでの伝道を開始されました。等々力教会は、現在の等々力2丁目6番19号へ教会を建てることになりました。教会も建設省大工養成所の学生さんの卒業作品として設計され、木造モルタル一部二階の教会を建設することになりました。礼拝堂の大きな合掌作りの屋根に赤い瓦が葺かれ、皆が歓声を上げて喜びんだのは、1950年(昭和25年)の10月のことでした。
付属幼稚園・神学校
(1945-1952)
新会堂の周囲は畑でしたが、北側に道を隔てて近藤さんのお宅が一軒あり、桜並木に面した南隣(現在のアウディ)は町会事務所で、世田谷区玉川第3出張所がおかれていました。赤い瓦の教会は遠くからよく見え、日曜学校が始まると、近所の子供たちが大勢そこへ来るようになりました。このことから子供たちの母親が集まり、教会で幼稚園をはじめてほしいと相談にみえました。鋤柄熊太郎牧師夫人久子さんは、戦前幼稚園の園長をしておりましたので、幼稚園を始めることにしました。献堂半年後の1951年(昭和26年)4月から始まりました。世田谷区役所から幼稚園の認可も受けることができました。はじめは、20名ほどでしたが、翌年は40名になりました。戦後団塊の世代に年々入園者が増えました。幼稚園は、2001年に50周年を迎えます。神さまの大きな恵みです。
教会は大勢の人々が集い、日曜日の礼拝をはじめ夜の伝道会もいつも盛況でした。戦後、キリスト教は一つのムーブメントとなっていました。鋤柄熊太郎牧師は英語に堪能で、教団の諸集会で宣教師や招待講師の説教・講演の通訳をしていたことから、新しく来日した宣教師たちが毎週等々力教会の礼拝に見え、紹介を受け牧師の通訳でショートメッセージをするので、大勢の人々が集い、また宣教師たちと英語で話す機会が与えられるので喜びました。200人入る教会堂は、いつも満員でした。
日本同盟基督教団の宣教師部(TEAM)、最初の理事長はG・W・ラウ先生でした。先生は戦前、米国長老教会の宣教師として来日し、明治学院の教授を務めた方でした。鋤柄熊太郎牧師は、同盟教団の教職者養成のため神学校の必要を思い、ラウ先生と計り世田谷区北沢TEAM本部の一角に神学校を開設しました。はじめ「日本同盟神学校」と命名されましたが、若い宣教師方の強い要望によって、「日本同盟聖書学院」と改められました。神学校の運営のすべてをTEAMが持っていたからです。校長はラウ先生、学監は熊太郎牧師、開校は1950年(昭和25年)4月でした。鋤柄和秋牧師は、第1回生として入学しました。当時日本のすべての教団・教派・教会および神学校は、米国教会の援助を受けていました。日本の教会が経済的に自立できたのは10年後の1960年ごろからでした。
翌年1951年4月、「日本同盟聖書学院」は、等々力の熊太郎牧師宅へ移転し、新学期を迎えました。TEAMの都合で、北沢の校舎を「新生運動」(宣教師の文書伝道部)が使用することになったからです。熊太郎牧師一家は、教会二階の牧師館へ移りました。ラウ先生は、神学校校長職継続のため理事長を退き、等々力のノートヘルファー師宅へ移って見えました。小さな牧師館で2クラスの授業が始まりました。物のない戦後の薄いベニヤ戸で隔てた教室は隣の講義が聞こえ、聖書語学の時間、2年生のヘブライ語、1年生のギリシア語の音読は入り混じって訳がわからなくなりました。学生は、牧師館の二階と校長宅前のお宅に寄宿しました。1952年9月、同盟聖書学院は新校舎を杉並区下高井(京王井の頭線浜田山)に建て、等々力から移ってゆきました。
(同盟聖書学院の授業風景-左手前の通訳が鋤柄熊太郎師、前列左端の学生が、鋤柄和秋師)
熊太郎牧師召天/和秋牧師就任
(1953-1964)
鋤柄和秋牧師は、1953年3月同盟聖書学院を卒業し、4月渋谷伝道所にTEAM宣教師と協力する伝道師として赴任しました。伝道所は渋谷東急文化会館の南、246号線に面し、良い場所でした。しかし2ヶ月経って、近くにあった日本キリスト教団澁谷教会の藤村勇牧師から、友人であった熊太郎牧師に連絡があり、余りに近くで伝道するのはお互いに困るのではないかと相談があり、TEAM宣教師団と諮り、渋谷伝道所を閉じることにしました。渋谷伝道所の建物は、その後、日本聖書協会の聖書保管所として使われ、現在はHiBA(高校生伝道協会)として用いられています。こうして和秋牧師は無任所教師になったので、等々力教会に席を置き、留学することになりました。
熊太郎牧師は1955年夏、茨城県下数箇所で宣教師の伝道を助けた後、体調を崩し、寝ていられましたが、翌年1956年7月キリスト教系の東京杉並衛生病院に入院され、肝臓ガンと診断されました。病院には中野教会松田政一牧師をはじめ、等々力教会の方々が大勢お見舞いに来てくださいましたが、熊太郎牧師の病状は一層悪くなり、翌月8月6日松田政一牧師臨終の祈祷のうちに静かに召天され、68歳の生涯を終えられました。余りに早く亡くなられたので、みな驚きを隠せませんでした。葬儀は等々力教会で行われ、教団理事の先生方が司式し、教団総会議長中野教会牧師松田政一師が、「ああ、鋤柄熊太郎先生」という題で説教されました。
1956年8月鋤柄熊太郎牧師召天にともない、同年9月和秋牧師が等々力教会主任担任教師として教団理事会から任命されました。また、同月教団理事会から、神学校教師に任じられ、東京基督教学園の教師になりました。その後、和秋牧師は1960年から教団理事と東京基督教学園理事、聖書神学舎理事に選ばれ、1970年までの10年間、教団の常任書記としての働きに従事し、1970年度学園で学生部長に任命され業務が多忙になり教団理事を辞任しました。1964年3月、教会付属幼稚園園長であった熊太郎牧師夫人久子姉が園長を引退し、和秋牧師が園長になりました。教会、幼稚園、神学校と忙しくなりました。
現会堂建築
(1967-69)
1967年、環状8号線工事と同時に、消防法の改正による周辺の公共施設に対する消防署の査察があり、等々力教会と付属幼稚園の建物もその対象になりました。教会の建物が、地震と火災に弱いことを指摘され、出来れば建てかえるように指導されました。20代の素人同然の大工さんが作った教会堂には心配もありました。事実、出入りの大工さんに見てもらい、大きな屋根を支える柱と梁(うつばり)を締め合わせるボルトがないことを教えられ、大きな地震のとき天井が落ちると言われました。大切な子どもさんを預かる施設は堅牢な作りでなければいけないと知らされました。鉄筋コンクリート二階建てで総工費は1,800万円(現在1億2千万)ということでしたが、そんなお金はありません。教会の皆さんと相談しました。教会の改築を教会役員会、教会総会で協議し決定しました。教会員全員が自分のできる範囲で予約献金あるいは月々に献金してくださいました。また、付属幼稚園で新園舎建築の寄付をあおぎ大勢の父兄が賛同してくださいました。こうして、建築会社と契約することになりましたが、その前に、教会の土地が借地のため、地主さんに相談し承諾を得て、田園調布公正役場で60年貸与の契約書を作成しました。
1968年3月卒園式が終わった翌日から、取り壊しが始まり、教会敷地北西にあった牧師館を切り離し、南の園庭に引き出し、礼拝堂にしました。また、建築会社が4月からの幼稚園保育室のため、プレハブ2階建ての一階を提供してくれました。ブルドーザーが入り、教会・園舎は瞬くうちに壊されました。さら地になると直ぐ、パワーシャベルが入り、地下二階まで掘り起こし、土をダンプカーで、運び出しました。それは大変な工事でした。鉄筋コンクリート二階建てにしては大げさと思いましたが、公共の施設ということで、基礎工事の徹底を世田谷区役所建築課が要求したのだそうです。地下二階の底に鉄筋を張り巡らし鉄筋の柱を建て始めました。区から建築課の係官が来て鉄筋の質、太さなどを毎日のように検査にきていました。特に厳しかったのは、コンクリートで、コンクリートミキサー車からコンクリートを取り出し1-2時間現場で分析検査するほどでしたが、何とか検査にも合格し、本格的に工事が始まりました。
1968年4月の入園式は、世田谷区の玉川区民会館で行いました。広い会場でしたが、それでも、満席でした。当時園児は、100名近い人数で、父兄も大勢見えたからです。コンクリートを打ち終わり、8月外枠をはずす時期になって、親会社と下請け会社が金銭のトラブルが原因で、下請けが引き上げてしまいました。工事がストップし、二月ほど放置されてしまいました。どうなることかと心配しましたが、10月はじめ、新しい下請け会社が見つかり、工事が再開しました。現場監督さんは、幼稚園に通う子どもさんがいて、自分の子どもの幼稚園を建てるつもりでやると、熱心に仕事をしてくださいました。11月になって、クリスマス会の準備が始まりましたが、練習する場所がないので、打ちっぱなしで内装のないコンクリートの教室で行いました。秋のさわやかな風がコンクリート教室を吹き抜けて行きました。こうして、12月クリスマス会は、玉川区民会館で行いました。しかし、建築費は思うように調わず、日曜日礼拝ごとに皆さんとお祈りをしていました。資金が不足していましたので、2階の教会部分はコンクリートのままにし、後日工事をすることにしましたが、現場監督さんがそんなみっともないことは出来ないと言い、かまわないからみんな一緒に仕上げましょうと、親会社に相談なしに工事を進めてしまいました。このような紆余曲折を経ましたが、やがて融資のめどが立ち、1969年3月には、新会堂完成しました。この年の卒園式は、新しい教会堂で行うことができました。本当に感謝しました。