信仰者の証

「神様に悪態をつきながら」

Eさん(仮名)

 私と聖書との出会いは、某カトリック系ミッションスクールに入学した六歳の頃なので、

比較的早いといえるかもしれません。
 
 校内のあちこちにシスターが歩いておられ、マリア像があり、賛美歌や祈りが
ことあるごとに

流れてくる‥‥そんな環境の中で、十二年間の学生時代を過ごしてきました。
 
 「心がやわらかくて、素直な若い時期に、神様のことがすんなり受け入れられたのでは?」

と思われるかもしれません。
 
 が、私の心はやわらかくもなければ、素直でもありませんでした。
 
 当時、校長先生のお話や倫理道徳の時間の教科書として用いられていた聖書は、

私には数学や物理の教科書と同じくらい無味乾燥な存在でした。
 
 特にその中に書かれているイエス様のことを、私はどうしても好きになれず、

「こんなニコリともしなさそうなおじさんが近くにいたら、いやだろうなぁ」などと感じていたものです。
 
 そんな風でしたので、卒業と同時に聖書はどこかへ放り出し、そのまま失くしてしまいました。
 
 本当ならそこで神様とのつながりは完全に切れたことでしょう。
 
 でも、その後渡英し、ケンブリッジという学生街で暮らす内にクリスチャンのイギリス人学生たちと

友達になりました。
 
 そして彼らに誘われるままに、学生達が主催する聖書を読む会に行き始めました。
 
 純粋に英語の勉強のつもりで参加しましたが、その会を導いているイギリス人のクリスチャン達に

なぜか私は偽善的なものを感じ、いらだちを覚えたのです。
 
 彼らを困らせ、怒らせたいがために、出席するたびに研究会の進行を邪魔するような質問や発言を

繰り返すようになりました。
 
 でもそんな質問をするためには、まず聖書を読まなければなりません。
 
 そんな「敵の手口を知る」の心境と動機で私は本屋に行き、一度は捨てた聖書を再び買い求め、

読むようになりました。
 
 不純な動機ではありましたが、今思うと神様はそのようにして私をイギリスでご自身の方に

引き戻して下さったのです。
 
 そしてその聖書を読む会で、私は初めて福音のメッセージを聞きました。
 
 迷惑な参加者であったとは思いますが、そんな風に聖書を読む会で質問をしていく内に、

少しずつ今までのイエス様に対する否定的なイメージが誤解だったことがわかっていきました。
 
 意地の悪い質問をして、司会者の学生達を困らせたにもかかわらず、次回会う時には

「これ、役に立つ?」と関連のある本を貸してくれたり、

「この前の質問のことね、あれから牧師に聞いてきたよ」と答えを持ってきてくれるなど、 
 クリスチャンとしての彼らの誠実な態度も強く印象に残りました。
 
 「自分には罪がたくさんある、イエス様の十字架が必要だ」と少しずつ思い始めながらも、

さらに数ヶ月がたちました。しかし、その間も表向きは私は福音に対して否定的な態度を

取り続けていました。
 
 これだけ否定的な態度をとってきた以上、「信じたいと思う」とは今更恥ずかしくて言えなかったのです。
 
 でもある日、さんざん自分がゴネて荒らしてきた聖書研究会から帰ってから、自室で

「私は罪人です。十字架の救いを信じます」と初めて祈りました。
 
 そして一ヵ月後に受洗。その後に「Eさんが福音を信じることができるように、

みんなで毎週祈り続けていたんだよ」と学生たちから聞かされました。
 
 反抗的な私を受洗にまで導いてくれたのは、そうした祈りとそれに応えて働いて下さった

神の力だったと信じています。

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